ひばりっこブログ

親孝行の日(創立記念日)を迎えます (4年生)

明日は「親孝行の日」(創立記念日)です

 

この日にちなんで、本学園の創立の精神である「親孝行」を掲げた初代理事長の鳥井信治郎先生、そのご子息の2代目理事長佐治敬三先生のことについてご紹介させていただきます。

 

鳥井信治郎先生

○母から学んだ陰徳陽報

 本校小学校だより10月号(本日全校に配布)をお読みになった方に対しては話がダブってしまいますが、信治郎先生が母親から学んだ「陰徳陽報」についてはやはり触れておかねばなりません。話がダブってしまうそのかわりと言っては何ですが、小学校だよりでは紙面が足りなくて書けなかったことをこちらで一部加えました。

 信治郎先生は昭和33年~34年にかけて、サントリー社内報「まど」に「道しるべ」と題する4回シリーズの寄稿をなさいました。ご自身の回顧録を記すことで、後に続く若い社員への人生の「道しるべ」となれば、という思いからでした。この中に「母親の憶い出」という項があり、以下のように記されています。

 

  「私の考え方の中にはいつでも母親が身を以て教えこまれた、おのずからなる教訓が後年生かされ体現されてきているように思われる」(「道しるべ」より引用)

 

 また、この項では、幼少時に母親に連れられて天満の天神さんに参ったときのことも記されています。これも小学校だよりで記したことで重複しますが記します。

   幼い時分、天満の天神さんへ母子二人で参った時のこと、天神橋の上には両側にたくさんのお金に困った人がいたそうです。信治郎少年は、母親から小銭をいただいて面白半分にその人達に投げ与えたそうです。すると、大きなお礼の声が聞こえてくるものだから、思わず後ろを振り向いてそちらを見ようとします。

  そうすると、いつもはやさしく、信治郎少年を叱ったこともない母親から、その時は大変きつい剣幕で「後ろを振り向いてはいけない」と言われたそうです。

 後年、この経験を「振り返ることは施しに対する礼を求めているのと同じ事であり、人に与えることに見返りを求めてはいけないのだ」と理解した信治郎先生は、強い信念のもと、熱心に社会福祉事業にも取り組まれます。「道しるべ」には、次のように記されています。

 

   大正時代のことであるが、毎年の年末には、社寺に献酒すると共に、「餅つき」をして、生活に困っている方々に配ってもらった。(中略)又それとは別に着物も贈った。

   伊藤忠から大量の反物を買い入れ、正月に間に合うように、家内は、社員の夫人達にも呼びかけ、一同で奉仕してこれを縫い上げたものである。(「道しるべ」より引用)

 

 この取組は、後に社会福祉法人「邦寿会」の設立に結びつきました。今年で100周年を迎えた邦寿会は、社会福祉法人のさきがけともいえる存在です。ちなみに、邦寿会の「邦」は、取組に貢献大であった信治郎先生の妻「クニ」の一字を取ったものです。信治郎先生の考えに共鳴し、積極的に活動に関わってくれた妻への感謝の気持ちをこめて信治郎先生が名付けたのです。

 また、終戦直後、会社の存立自体が危ういこの時期に、そのような余裕はない、という社員達の猛反対を押し切って、戦災に遭った人々のために炊き出しを続けたり、外地引揚者のための収容施設「駒川ホーム」や、身寄りのない方たちのための「赤川ホーム」を設け、戦災によって行き場のなくなった方々に宿泊所を提供してきました。

 「道しるべ」には、母親から「人に与えるときに、見返りを求めてはいけません」と具体的な言葉で教わった、とは書かれていません。信治郎少年が母親の小さな善行から学び、長じて陰徳陽報という境地に昇華させていき、やがてたくさんの人々に善行を施すようになっていったのです。それも信治郎先生のなさった親孝行の一つだと思いご紹介させていただきました。信治郎先生が学園の創立の精神を「親孝行」となさったのもうなずける話です。

○創立10周年記念式典でのエピソード

 

 左の写真は本校に所蔵されている創立10周年記念式典のものです。このとき、信治郎先生はもう歩くことも声を出すこともままならず、ご子息の佐治敬三先生に負ぶってもらっての会場入りとなりました。

 式典ではたくさんの理事・教員から祝辞が寄せられ、それを信治郎先生は終始黙って聞いておられたそうです。

 式典が終わり記念撮影になったとき、信治郎先生はこの式典でたった一言だけ次のように漏らされたそうです。

 

「でもね、なんといっても親孝行ですよ。」

 

 この様子は開高健・山口瞳共著の「やってみなはれ みとくんなはれ」(新潮文庫)にわずか2ページではありますが記載されています。本来サントリー40年の社史であるこの著作に、このエピソードが採り上げられているということは、信治郎先生が稀有な企業人としてだけではなく、その人となりを描く上で欠かすことのできないエピソードだと作者は判断したのではないでしょうか。

 

佐治敬三先生

○ACジャパンの創立者

 佐治先生も父親の遺志を引き継ぎ多くの社会貢献をなさった方です。有名なものとして一つご紹介するとすれば、CMでよく見かける「ACジャパン」がふさわしいでしょう。佐治先生が創立者です。しかし、そのようなことをわざわざ学園で吹聴もなさらなければ、ACの活動に加われと号令を発したりもなさいませんでした。学園の者として恥ずかしいことですが、佐治先生がACの創立者であることを知ったのは亡くなってからずいぶん経った数年前のことでした。

 ACジャパン(創立時は関西広告機構)は、1970年の大阪万博を前にして、世界から多数の訪問客がやってくるのに、大阪人の公共マナーはこれでいいのか?という危機感から設立を思い立たれたそうです。

 設立されて初めてのCMは、映画評論家の淀川長治氏を起用し、駅でのマナーに警鐘を鳴らすというインパクトのあるものでした。当時かなり話題をさらったCMであったと思います。ACジャパンは、それ以降数々のCMによる啓蒙活動や、社会福祉活動の支援をして社会に貢献を続けているのはよくご存じでしょう。

○私事になってしまいますが

 私事ですが、佐治先生とはご存命中にひょんなことからごいっしょしたことがあります。その場所はなんと本校のトイレでした。

 小学校運動場から学園中高50mプールに下りるためにらせん階段があり、そのそばにトイレがあります。そのトイレで、たまに本校に散歩にやってくる老人といっしょになったのでした。その老人は、もう歩くのもやっとの様子でしたが、若い人に付き添われて、いつも運動場に面するクスノキの下のベンチで、決まって15分休みに元気に走り回る児童に見入っていました。

 当時はまだ正門に警備員がいるわけでもなく、近所の方が散歩に来ているのだ、という程度にしか思っていませんでした。

 トイレでいっしょになって、ああ、いつものおじいさんだと思って先に用をすませた私は、特に言葉を交わすこともなく軽く黙礼してトイレを出たのですが、そのときにかなり近くでお顔を見ることになったのです。どこかで見たことのあるような顔だ・・・そんな気はしたのですが、大して気にもとめませんでした。そして、しばらくしてハッと気づいたのです。「あの老人は理事長先生だ!」。経団連会長としてテレビではよく拝見したお顔ですが、まさかそのような至近で見ることになるとは夢にも思っていなかったのでした。

 晩年、ご自宅から散歩をしてこられて、決まって児童が元気に楽しく遊んでいる時間帯にベンチでその様子をながめておられたわけです。何回かそのお姿を見かけましたが、いつも背後からでした。どのような表情で児童達をご覧になっていたのか見ておけばよかったと今になって思っています。きっと穏やかな表情だったに違いありません。

 

校内の花の様子です

まだ暑い日が続くものの、季節は秋に入りました。保健室前に「グリーンカーテン」を形成していたヘチマ・ゴーヤ・ヒョウタンも収穫を終えました。

 

収穫されたヘチマとヒョウタンの一部。児童の筆箱と大きさを比較してみました。ヘチマはもう巨大と言っていいレベルです。

 

  

5月の時点で芽が出たばかりのヘチマは(写真左)、7月には立派に成長し(写真中)、9月役目を終えて枯れていく・・・と思いきや

 

なんとまだ花をつけていました!

 

ベル広場1年虹組前にグリーンカーテンを形成していたアサガオです。右の写真ではしぼんだ花が見えます。もう10月になるというのに、ひょっとして朝咲いていたのでしょうか?

 

 

7月にご紹介したバラは実をつけたようです。花は見慣れたものでも、バラの実というものにあまりなじみのない者にとっては珍しいので、しばらく見入ってしまいました。

 

緊急事態宣言が解除

緊急事態宣言が解除となりました。しかし、感染再拡大防止、収束に向けて気を緩めることなく今までのとおり感染対策に取り組んで参ります。

https://web.pref.hyogo.lg.jp/governor/documents/m_20210928_01.pdf 

(「気を緩めず、感染再拡大へ警戒を!」兵庫県知事メッセージ 兵庫県HPより)