ひばりっこブログ

夏休みの報告を聞きながら・・・。

 長いようであっという間の夏休みが終わり,静まり返っていた学校に,元気いっぱいの子どもたちの笑顔が戻ってきた。連日うだるような記録的暑さの夏,子どもたちはどんな夏を過ごしたのだろうか。ぼちぼちと一人ひとりのお話を聞くのがこの時期の楽しみだ。子どもたちの報告は実に面白い。子どもらしい視点や表現で,楽しかった夏のあれこれを話してくれる。長期間旅行に行っていた子,キャンプで大自然に親しんだ子,「暇を持て余す」ということを実感した子。どれも長い夏休みならではの貴重な体験だと考える。

 特に「暇を持て余す」について,今日はここで考えたい。常々忙しくしている小学生。暇な時間にぼーっとしたり,何もすることがない,ということを感じることも,実は大切な経験だと私は思っている。お膳立てされた楽しみではなく,暇だからどうしたら楽しく過ごせるだろうか,この時間に何ができるだろうか,と,「無」から「有」を生み出す感覚。大人も同じく,日々忙しいとついつい目先の「やらねばならないこと」に追われてしまいがちだ。本当にやりたいことはなんだっただろうかと感じる時間は,こういう瞬間に潜んでいたりするのではないだろうか。なんて考えていたら,私の思いとシンクロするように面白い著書に出合った。河合隼雄先生の「子どもと学校」である。少し紹介したい。  

 『学校(スクール)を意味するラテン語エコールは,もともと「暇」という意味を持っていた。学問というものは暇なときにするものだ,というよりは,暇こそが真の学問を生み出す,と考えていいだろう。(中略)創造活動に従事している人が,ときに幼児的になったり空想にふけったり,ぼんやりとしたりしているときに,すばらしい着想や考えを持つ事実を指している。エジソンが子どものころに「怠け者」と思われていたことなどは,こうしたことを端的に示しているだろう。子どもの頃から,彼は「創造の遊び」の世界に入り,それは外から見ると「お勉強」ではないという意味で,「怠け者」と判断されたのである。(中略)大人たち(特に教育者といわれる人たち)は,指導したり,言い聞かせたりすることが好き過ぎる。自由な遊びの中に,子どもの創造活動が現われ,それを通じて子どもたちは自ら癒され,自ら育ってゆくのである。遊びによって子ども時代に養われたイマジネーションのはたらきは,成人してからも創造活動をするときに,そのベースとなっている。「お勉強」で固められ,遊びの少ない人間は,成人してから創造的な仕事を達成できないのである。』と本文にある。  

 とはいえ暇でぼーっとしている我が子を見ると,ついつい「宿題したの?」「何かしたら!」と声をかけてしまいそうになるのも母の本音。でも,普段忙しくしている子どもたちにとって,実は暇も大切な育ちの一要素であるのだと理解しておけたら,子どもを見守る目も心も,少し穏やかになれるのではないだろうか。  

 そろそろはじめに話を戻して…,教室で,「久しぶりに先生に会えてとっても嬉しい!」「さあ,また学校生活がんばるぞ!」と素直に,思いのままに表現してくれる子どもたち。どうかこの子たちのこのまっすぐな思いに,少しでも多く,誠実に応えられる教師でありたいと,改めて肝に銘じ,2学期をスタートさせている。